※『地球のココロ』というクローズしたサイトで、2010年10月13日に掲載した記事の転載です。
私が子供の頃、家族でイナゴを捕りに行き、母親がそれを佃煮にするという年中行事があった。もう何十年もやっていないイベントだが、なんとなく復活させてみることにした。
長野県民はイナゴを食べる
私の両親は長野県の出身で、秋になるとイナゴを捕まえて食べる文化圏で育っている。長野県民全員がイナゴを食べるかというとそんなことはないとは思うが、少なくても両親はイナゴを食べて育っている。そして私も子供の頃に、多少なりともイナゴを食べた記憶がある。
食べ物がいくらでも手に入る現代の日本において、わざわざイナゴを捕って食べることに意味はないかもしれないが、この年になって野菜を育てたり魚を捕まえたりする自給自足的行為にハマりだすと、ふたたびイナゴも捕まえたくなるというものだ。
私にとって生き物を捕まえて食べるということの原体験は、イナゴ捕りなのである。
ということで、数十年ぶりに母親とイナゴを捕まえに家庭菜園近くの田んぼへとやってきた。イナゴ捕りは昨日急に私がいいだしたことなのだが、それにもかかわらず手作りのイナゴ専用袋を用意する入れこみっぷり。さすがである。
底を抜いた乳酸菌飲料と布袋をつないだ専用容器。そういえば子供の頃も、こんなのにイナゴを入れたような気がする。
見事な擬態のイナゴ。
用水路に逃げられたイナゴをどうしてやろうかと思案する母親。
なにかをしゃべりそうなイナゴ。「煙草の増税、勘弁してほしいよね」とか。
草むらをかき分けてイナゴを追いかけるアクティブな母親。
イナゴ発見。と思ったら、その下にもう一匹!
イナゴを捕まえても捕まえても袋がいっぱいにならないなと思ったら、袋に穴が開いていた。どっかで引っ掛けたかな。
これはイナゴじゃないな。仮面ライダーっぽくてかっこいい。
カマキリがけっこういた。もう大人になったので捕まえないぜ。本当はカマで挟まれるのが怖いんだぜ。
イチャイチャしているイナゴは捕まえやすいが、なんとなく罪悪感が芽生える。でも捕まえる。
ガサガサっと音がして手を伸ばそうとしたらアマガエルということが20回くらいあった。
イナゴを捕まえるのはおもしろい
人の気配を感じるとピョーンと飛んで逃げていくイナゴ。それを追いかけまわす大人。捕まえるのはもちろん素手だ。
うまく射程距離圏内のイナゴを見つけたら、カメレオンの長い舌、あるいはボクサーのジャブをイメージして、イナゴめがけて一直線にこぶしを飛ばす。
つぶさないように優しく握ったその手のひらには、ガサガサっとした確かなイナゴの感触。これこれ、この感触が懐かしい。もちろん捕まえたと思ったイナゴがイリュージョンのように消えてしまっていることもしょっちゅうだ。
なるほど、久しぶりにやってみると、これはショウサイフグのエサ釣りのようにゲーム性が高くておもしろい。捕まえるための難易度がちょうどよく、ついついハマって気がついたら汗ダラダラになっていた。
一時間でどうにかこぶし一つ分くらい捕まえた。
これだけ採れれば試食するだけなら十分だろうと思ったが、まだ捕まえ足りないらしい母親から「もっと朝早くじゃないとイナゴをヒョイってやってもピョンピョンって逃げちゃう!」というクレームが入った。
もうけっこうな年になる母親なのだが、私より捕まえたイナゴがちょっと少なかったのが気にいらなかったのだろうか。結局翌朝7時からまたイナゴ捕りをすることになった。
寝ぼけてデジカメを忘れたので携帯の写真のみ。確かに朝露に濡れたイナゴの動作はゆっくりだったが、捕る側の人間も寝ぼけてゆっくりだ。
イナゴの佃煮をつくる
イナゴを食べる際のコツは、フンを出させてから料理することだそうだ。「イナゴを家に置かないでください」という千葉県育ちの妻の言葉に従い、母の家であずかってもらい、そのまま翌日料理することにした。
まず袋の上から熱湯をかけて、取り出したイナゴを流水でよく洗う。袋にはけっこうな量のフンが残されており、なるほどこれは一日絶食させてから料理して正解だなと思った。
ジャー。
このとき、固い後ろ脚と羽をとると上品な仕上がりになるそうだが、「私は面倒だからとらないんだけどね」という母親の言葉に従い、このまま料理を進める。
「脂が乗っているから水をはじくでしょ」といわれた。脂の乗った昆虫って初めてだ。
このイナゴを鍋に移し、ほうじ茶をヒタヒタよりちょっと多い位加えて煮詰めていく。ほうじ茶で煮ることで、イナゴのアクと臭みが抜けるらしい。関係ないけれど、静岡では緑茶に足をつけて水虫を直す民間療法があるそうだ。
出がらしのほうじ茶を飲みながら煮詰まるのを待とう。
突然ですがイナゴの天麩羅を揚げます
イナゴを煮る時間は30分くらいということで、それまでの間に少し残しておいたイナゴを天麩羅にしてみた。イナゴを食べて育った母親も天麩羅は初めてらしい。
イナゴといえば緑が似合うので、シソの実もあげてみました。
ほんのりと赤く色づいたイナゴ、「エビのようですね」「そうですね」となぜかよそよそしいことを言いながら食べてみる。恐る恐る食べたので、あまり噛まないで飲みこもうとしたのが悪かった。原型をとどめたままのイナゴの後ろ脚が喉に引っ掛かってむせかえってしまった。
ここで一言、「得体のしれないものほどよく噛んで食べろ!」だ。肝に銘じようぜ。
味自体は、甘エビの頭を揚げたやつと似たような感じで、ちょっと遠くの方で草っぽさがあるような気もするけれど。衣をつけた天麩羅よりは、から揚げでカラっとさせた方がいいかな。
ただ下処理の段階でイナゴの後ろ脚と羽をとるという意見は絶対に正しい。これは来年の課題ということで。って来年もやるのかな。
このふくらはぎのトゲトゲが喉に引っ掛かった。
イナゴの佃煮作りに戻ります
あらかた煮詰まったところで、砂糖、醤油、日本酒で濃い目に甘辛く味をつける。ここまでくればもうおいしそうな食材にしかみえないかというと、決してそんなことはなくて、まだまだイナゴにしか見えない。
砂糖たっぷり。
最後にみりんで照りを出し、汁っ気が完全になくなったらイナゴの佃煮の完成だ。
イナゴからコオロギへの華麗なる転身。
食べてみると、さすがに濃い目に味をつけただけあって、いわゆる佃煮の味がするだけで、イナゴだからどうということはなく、味自体は川エビなどと変わらない。
しかしいくら煮込んだとはいえ、丸ごとだとやっぱり後ろ脚と羽が口の中でチクチクするので、むしりながら食べた。これはエビの殻をむきながら食べるのと置き換えれば特に違和感のない行為だと思う。ほうじ茶を飲みながらいくらでも食べられる。
後ろ脚と羽さえなければ普通においしい。
結論として、イナゴの佃煮は佃煮の味がする。たぶん目をつぶって食べたら何を食べているのかわからないだろう。イナゴを食べてイナゴと当てられるのは、普段から食べなれているカマキリくらいだ。
ちなみに母親が子供のころは、食べるものがない時代だったので、給食用に捕まえたイナゴを学校に持っていき、それを煮て干して煮干しにしたものを粉にして、味噌汁のダシとして混ぜて食べていたそうだ。イリコダシならぬイナゴダシである。
母親とイナゴをポリポリと食べながら、イナゴは趣味として食べるのはいいけれど、イナゴしか食べるものがない時代はいやだなと、当たり前のことを思った。
フー。