私的標本:捕まえて食べる

玉置標本によるブログ『私的標本』です。 捕まえて食べたり、お出かけをしたり、やらなくても困らない挑戦などの記録。

つまらない嘘

 

 

 

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「苗字変わったんだ」

何を言っているんだろうと一瞬思ったが、その原因は3秒前の自分にあった。

 

ここ何年かずっと通っている床屋がある。近所のショッピングセンターに併設された1000円カットだ。最近廃止されてしまったのだが、そこはスタンプカードのシステムがあって、20個くらい貯めるとタダになる制度を利用して、確か2回無料で切ってもらったくらいは通っている。

髪型にこだわりは特になく、2か月くらいして長すぎるなこれはと思ったら切るだけなのだが、スタンプカードに書かれた日付を見ると、だいたいぴったり二か月おきに切っているのが面白かった。奇数月の後半が多かった気がする。

そんなに通っている床屋だが、そこに通うことに特に意味はなく、安くて行きやすい場所にあるというだけで、指名の理容師さんがいるということでもない。というかそこの1000円カットに指名制度などない。平日はだいたいワンオペで、痩せたマイク真木みたいなカウボーイスタイルの人が担当。この人で大丈夫かなと思いつつ、「2センチくらい」とだけ言って切ってもらう。

今日もそろそろ髪を切るかと、所用で車を出したついでにその床屋に行った。スタンプカードが廃止されて、前回がいつ切ったのかがわからないのが困る。だからといって不便なことはなく、なんとなく自分が髪を切るペースが気になるというだけの話だが。たぶん二か月ぶりだとは思う。そういえば奇数月の後半だ。

いつものようにドアを開けて、消費税10%に歯ぎしりしながら自販機に1100円を投入。いつもだったら食券的なものを取ったら、受付名簿に名前を記入して、横一列に並べられた席で待ち、ベルトコンベア式に奥へと移動しながら漫画を読む。この時間がかなり好きだ。ブラックジャックやアラレちゃんなど、読んだ覚えはあるけれど内容はほとんど覚えていないものがちょうどよい。

この日は珍しく店内に客が一人もおらず、カウボーイがぼんやりと店の奥で座っていた。待ち時間のないラッキーと、漫画が読めないアンラッキーが心の中で釣り合っている。無表情のまま食券的なものをとると、イスから立って理髪台へと歩いてきたカウボーイに渡してそのまま切ってもらおうとした。

「そこに名前書いて」

カウボーイは理髪台の準備をしつつ、受付名簿に視線をやった。誰も待っていなくても、名前を書かないといけないのかと意外だった。ファミレスだったら不要な手間だ。そうか、あの受付名簿は順番に呼ぶだけのものではなく、受付した人数を把握するためなのかもしれない。いやそれだったら食券的なものを発行する機械がなんらかのレポートを出してくれるのでは。

そんな一瞬の間が、ひねくれた対応を生んだのだろうか。いつもは本名の苗字をカタカナで書くのだが、なんとなく思いついたよくある偽名を書いてみたのだ。その行為には特に意味などないのだが、ここに書く名前に意味が感じられなかったからだ。もう呼ばれることすらない名前である。ほぼ無意識に近い、自動書記的な使い捨ての偽名だ。

なんて書いたのかすら忘れながら理髪台へと向かった私に、カウボーイが冒頭のセリフを小声で言ったのだ。

「苗字変わったんだ」

これまでぼんやりしていたのに、急に頭の中がクルクルと回る。え、なに? あ、偽名がバレたのか。まさかこちらの名前を把握しているとは。そりゃ何年も通っているので名前を憶えられていても不思議はないのだが、2か月に一度やってきて「2センチくらい」というだけの男の名前を憶えていたことが意外だった。

いや覚えていたというよりは、名前をはっきりとは憶えていないけれど、いつもと違う名前だということに気が付いたのだろう。お前、確かその名前じゃねえだろと。本当に変わったのか、ただのいたずらか知らないが、俺は気づいたんだぞと。

そんなことを一瞬で考えて、私から出た反応は、苦笑だった。くしょう。にがわらい。左の口角が不自然に吊り上がった。ここまで苦笑が似合う場面もないだろう。その話はそれで終わり、「今日はどうしますか」と聞かれたので、「2センチくらい」といつものように答えた。

武者小路さんとか、ドストエフスキーさんとか、ちょっと個性が強い苗字の人は、名前を呼ばれたときに注目されることを防ぐため、こういう時に使う仮の名前を持っているんじゃないかなと思いつつ、黙って髪を切られた。

カウボーイのカットした私の頭は、毎回仕上がりの長さがけっこう違う。今日はかなり短めになった。私が書いた偽名に対するなんらかのアンサーだろうか。カウボーイに対して偽名を使ったことで、なにか信頼を裏切ったよう気まずさがあった。床屋で切るのは髪だけでいい。

「ありがとうございました」

店を出て、さて次回はどうしたもんかと考える。今回名乗った名前は出るときに名簿をさりげなく確認したので覚えている。その名前をまた使うべきか。何もなかったかのように本名に戻すか。それを考えるのが面倒なので、他に床屋に行ってしまおうか。

ここはやはり今後も偽名を使い続けて、なにか訳あって本当に変わったんだなと思わせたいところだが、その次くらいに行ったとき、そんなことは忘れて本名を書いてしまいそうだ。それは恥ずかしいので、いっそその名前に改名しよう。いやしないけど。

つまらない嘘はつくもんじゃないなと思いつつ、役に立たない嘘こそ面白いなと思った。

 


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